8月15日祖父が亡くなった。
祖父は獣医師だった。
大正13年に岩見沢で生まれ、戦中であった大学時代を東京で過ごし
その後、祖母と出会い結婚。昭和25年に北海道の北見市に渡り家畜診療所を開業した。
戦後間もない時期に東京から道東の地へ赴き、27歳で獣医師として独立開業。当時の道東の様子を想像すれば、かなり思い切ったことだったと思う。
祖母は三軒茶屋の呉服屋のお嬢さんであったため、どこの馬の骨とも知らぬ祖父のところに嫁に行かせるなど言語道断として一族は猛反対だったらしい。
なかば駆け落ちのように東京から北海道へ渡り、診療所を開業。その数年後に私の母が生まれた。当時、牛や馬を治療しても畜産農家は現金での支払いが出来ることが少なく、治療費の代わりに米や農作物を受け取るという事も少なくなかったようだ。
また、当時炭鉱の町としても栄えていた網走・北見・美幌地域はいわゆる荒くれものも多く、
映画『網走番外地』のような様相もあったようで、幼少期の壮絶な思い出を親戚一同から聞くことは多い。祖父はそのような環境のなかで逞しく北海道の畜産史を築いてきた一人だったのだろう。広大な道東を診療で回るにはバイクが欠かせなかったらしく”単車乗りの獣医”として走り回っていたらしい。
札幌に移ってからは日本獣医師会、JRAの仕事等をしながら過ごし、定年後も様々な畜産関係の仕事に関わっていたようだ。孫の私たちが遊びに行くと、いつも書斎から出てきて楽しそうに話を聞いていた。母や叔父の話を聞くと若いころの祖父は畏怖の対象だったそうだが、私にとっては”祖父は豪快だけど、お洒落でなんだかイギリス紳士っぽいぞ”と、なんとなくジョジョのジョースター家を彷彿させる存在でもあった。
そしてまるで8月15日という象徴的な日を待ったかのように92年の波乱万丈の人生に幕を閉じた。
葬儀では初めて祖母が泣く姿を見た。普段、人の話にじっと耳を傾けにこにこと笑って頷いている穏やかな祖母が告別式で棺を閉める際に、何度も「ありがとう」と繰り返しながら声を出して泣いていた姿は私は一生忘れることが出来ないだろうと思う。
祖父、祖母、二人の人生には私などには想像できない様々な苦労やドラマがあったのだと思う。
私の祖父に限らず昭和初期という時代はエネルギーに溢れ、いまでは信じられないような経験をしている人が多いだろう。「人に歴史あり」という言葉もそうだが、戦後の混乱を生きた”ドラマのある人生”に感嘆するばかりだ。
最後に、自分の凄まじい生き方を通し、
様々なものを与えてくれた祖父に最大限の感謝の意を表し、冥福を祈る。
ウイ