通過

ff882c52.jpg僕は幼い頃から日本の各地を転々として育ってきました、小学1年生の頃、富山県の海沿いの街に住んでいました、当時の僕の全世界はその小さな街の一部、そこで多感な少年期を送っていました。二年生にあがってすぐに岩手に引っ越してその街に赴くことはなかったんだけど18歳の頃、無茶な一人旅の途中で立ち寄ることに決めました。そこで、再び出会った街なみに、僕が感じたのはとても不思議な感情でして、単なる懐かしさでは到底表現できないものでした。
なんというか、「本当にこの街はあったんだ、、。」といった心境が一番近かったかもしれません、あくまで記憶の中でしか見れなかった風景をまじまじと見せ付けられ「あー、オレ本当にここにいたんだ」と思っちゃったんでしょう。
幼い頃に短い時間を過ごした場所は10年を経た自分にとってはどこか幻想的で平面的になってしまっていたからかもしれません。
過去に自分が遊んでいた公園で遊ぶちっちゃい子を見ていて
「続いてるんだぁ、、、。」とひしひしと胸を締め付けられるようなものもを感じたのをおぼえてます。
ひとつひとつ昔見ていた風景を確かめながら「ここにいた」と確かな実感が湧くにつれ、それまでは思い出せなかった情景がフィードバックしてきたのも印象的でした。
ありきたりな表現だけど『風景が話しかけてくる』ってのはこういうことなのかもしれないなーと思いました。
自分が通過してしまったとしても「場所」は消えない。少しずつ形は変わっていくかもしれないけど「そこ」は在り続ける。
という一見あたりまえのことにえらく心を揺さぶられたわけです。
こんなことを思い出したのも、今日喫茶店で友達とMy Little Loverの『Hello, Again ~昔からある場所~』って曲いいよなーって話から、
マイラバ→ 記憶の中で~(歌詞)→ 昔からある場所 → 富山
みたいな連想ゲームみたいに思い出しました。 あの曲良いですよね。
 
ウイ

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