蒲田。後身。曲

432aceb8.jpg蒲田。
多摩川沿いに引越してそろそろ1年経つが、割と近所なのでたまに足を運ぶようになった。役所があるし、羽田に行く時も京急蒲田まで街を突っ切って歩くのがなんとなく好きだ。あとユザワヤね。
実は蒲田という街、上京したての頃によく来ていた。もうおよそ10年ほど前になる。
当時、共に新聞奨学生という立場であり、数少ない友人であった同郷のD君は蒲田に配属されていた。板橋区に配属されていた僕は、お互いの休日を見つけては東十条から京浜東北線に乗ってしばしば足を運んだものである。
板橋の平屋ばかりの静かなエリアに住んでいた僕は蒲田という街に得体の知れぬ羨望のようなものがあった。雑多で店が多く、華やかな喧騒、繁華街。休みの日に友達と出かける街は楽しく、僕の東京観にはかなり良い形で蒲田のイメージが植え付けられていった。
まぁ要するに蒲田って超イケてるじゃん!イエッTOKYO!と思っていたのである。
D君と僕は正真正銘の田舎者で、また共にギター弾きであるという危険な要素をたくさん内包していた。新大久保の楽器屋で、ドでかいマーシャルのスタックアンプを購入し、ウントコドッコイショと山手線へ担ぎ込む、昼間とはいえそれなりの混雑のなか、スタックアンプを電車で蒲田へ運ぶという行い。
また、19歳のくせにバーボンロードをうろつき「酒でも飲むか、バランタインのロックがいいねぇ」とか、もう完全にバランタインって言いたいだけでした。
その後もしばらく、蒲田は僕のカルチャースクールでしたが、とにかくいま思い出すと赤面したくなるような思い出が一杯詰まった街なワケです。
久しぶりに帰省したときに、両親が都会暮らしは慣れたか?と聞いてきたので、若干得意気味に「楽勝よ、最近はよく蒲田で遊んでいる」というと、かなり怪訝な顔をされ「蒲田行進曲の蒲田か?」と確認後「はぁぁ」と大きな溜め息をつかれたのが思い出深い。
まぁ、もし僕がいま女の子の父親だったして、娘に『蒲田で遊びまくってるよ!』とか言われたらガクッと膝から崩れ落ちてしまいそうであるから、妥当な反応だろう。
そんなこんなで年月が経って、蒲田という街が一般的にどのように認識されている街かを知っていったのだけど、いま再び近くで暮らすようになってたまに出掛けても、やっぱなんか好きなのである。
昔はユザワヤについて、手芸の店だと知ったとき「ふん、なーんだ、あんなにでかい必要あんのかよ!」と尖った考え方をしていたのに、今となってはクラフト素材のため足しげく通って、店員さんにあれはないか、これはないかと品揃えについていろいろ質問し、ユザワヤ友の会にも入っている始末だし。
19歳の頃は粋がって「おい早く酒を飲もうぜD君!」と肩で風を切って歩いていたが、今では駅構内のプチ鯛焼きを買って帰るのが楽しみという、なんとも、人も変われば変わるもんだな、と思う。
ちなみにプチ鯛焼きは16個(500円)からしか買えない。あんこ、チョコ、レアチーズ、キャラメル、カスタード、プレーンなど、これらをいかに16で割るかは、非常にセンスの問われるシチュエーションであり、いまだ完全に自分に納得のいった買い方は出来ていない。いち早い黄金率の発見が望まれる。
蒲田について書いたのは、D君が田舎に帰ることを決めたとの理由でして、寂しい。
今度蒲田に行った際には、彼がこよなく愛し、ことあるごとに一緒に行こうと言っていたレバニラ定食の名店を訪れようと思う。(僕はレバニラが苦手で一緒に行きたがらなかったので店名、所在地不明)
およそ9年、全く近寄らなかった街、蒲田。
いま再びそこに舞い戻り、私は試されるのだ、、と締めます。
当時蒲田でよく聞いていた曲↓

ウイ

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